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映画「長州ファイブ」歴史映画の退屈さと特権階級が文明開化させた限界 [映画]

2007年2月に公開された、この映画のことは、友だちから聞いていた。
日本の歴史映画は、結末が分かっているので、あまり好きじゃない。
だから、この「長州ファイブ」も、特に、見る気は無かったが、
たまたま、CATVでやっていたので、なんとなく、見てしまったのだった。

予想通り、まず、前半1時間の、退屈なことったら、なかったぜ!
幕末の騒動やら、攘夷が、なんたら、かんたら、退屈極まりない。
そして、いずれ、到達するに決まっている、イギリスまでの、
蒸気船の航海を、延々とやられて、見ている私は、欠伸の連続だった。

折角、松田龍平さん、山下徹大さん、北村有起哉さん、三浦アキフミさん、
前田倫良さんという、有望な若手俳優を起用しているのに、もったいないなあ、
と、思い、いい加減、TVのスイッチを、切ろうか、とも思った。

しかし、後半、松田さんが演じる、山尾が中心となった話になっていき、
これは、少しはマシな展開になるかと思って、我慢して、最後まで、見たんだ。
そしたら、安っぽいメロドラマの域を出ず、しかも、尻切れトンボだった。
トホホ・・・・・

この映画の目的として、現代日本の若者たちに、カツを入れることが
あったのかどうか、それは、分からないけど、文明開化というか、
技術革新という意味では、もう、世界に学ぶ国がない日本の、
若者たちのこころに、どこまで訴えるのかどうか・・・・・・・

明治維新は、日本の大きな転換期であったし、そこから、学ぶことが
多いのも事実だ。
しかし、それ以降、富国強兵に励んで、軍備を増強し、日清・日露戦争に
勝利して、軍国主義の帝国日本になっていったことを考えると、
100%手放しで、明治時代の発展を、肯定だけする訳には、いかないだろう。

そこに、何の反省も無く、ただ、ただ、明治の偉人たちを、賞賛してみても、
私には、なにか、腑に落ちないものが、多く残るのは、当然だ。
もちろん、日本が、近代国家にならず、列強各国の植民地になればよかった、
などというつもりはない。日本の近代化を、全否定する必要は、無い。

問題は、何が良くて、何が悪かったか、を、いつも、常に、
検証しつづけることが大切だ。21世紀に入った現代から見たら、
明治維新とか、産業奨励、富国強兵が、どういう意味があったのか。

この映画の脚本家は、そこに気づいていたと見えて、
長州ファイブが渡った、当時のロンドンで、いろいろな社会問題が
起きていることを、彼らに、知らせて、見せた。
当時の日本より、格段に進歩しているイギリスにも、問題が多いと。

特に、会話が不自由な、英国女性・エミリーと知り合った山尾は、
そういう問題を、一番、多く知ったように、私は、この映画で、認識した。

で、その山尾は、どうしたかというと、そんな社会問題には、無関心で、
ひたすら、造船技術を、学び続けるだけだったのだ。
そして、慕ってくるエミリーに、冷たく、もうすぐ、日本へ帰る、と、
言い放つのだった。この、かなり冷たい仕打ちに、私は、失望したね。

山尾が、エミリーと結婚して、イギリスに帰化して、「物をもたざる者」
の味方になった、というのなら、素晴らしい話なんだけどね。

でも、そりゃあ、無理ってもんだぜ。歴史映画だからさ。
それに、いままで、支配階級で、特権階級だった、武士が、
ちょんまげを切ってみせても、心の中まで、その傲慢さを変えることは、
できなかったのだ。

そして、伊藤博文に代表されるように、長州ファイブは、みな、新政府の
中心人物となっていったのだった。そうなるのが、見えているから、
前半の命がけの渡英も、色あせてみえて、仕方が無かった。

まあ、山尾だけは、ちょっと、毛色が違って、東大工学部設立や、
会話が不自由な人々の協会を作ったりして、地味だけどね。もしかしたら、
山尾を中心的に扱ったのは、脚本家や制作側の免罪符だったのかもね。

この映画を、私が見て、考えることは、以下の通り。
先進国となった現代日本が、世界に教えることは、無いのか?
先進国となった現代日本が、なお、世界から学ぶべき、大切なことは、
本当に、無いのか? 

この映画を見て、そこまで、具体的に、考えることが出来る
日本の若者が、多数出れば、この映画が制作された価値も、あると思う。
果たして、実態は、どうなんだろうか????







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映画「エンジェル・アイズ」運命の必然の結びつきに人生の普遍性をみた [映画]

レンタル屋のお薦めで、「エンジェル・アイズ」という、ちょっと、
古い映画を借りてみた。2002年10月公開の、アメリカ映画だ。

この映画は、人生の未熟な経験者には、まず、理解できないだろう。
いろんな恋愛を経験したことがない人にも、わからないと、思う。

いろんな意味で、私は、良く出来た映画だと思うけど、未熟者には、
そこが理解できず、この映画の評価も、賛否両論のような気がする。
ちょうど、映画「ジョゼと虎と魚たち」が、未熟者には、理解できないように。

この映画は、運命の巡り会いはあるか、と、問題提起している。
運命の巡り会いを、経験している、私は、当然、あると思う。
でも、そういう経験の無い人は、そんなの絵空事と、断言するかもしれない。
経験しないと、理解できないことって、たくさん、ある。

主演の二人、ジェファニー・ロペスと、ジム・カヴィーゼルの眼は、素敵だ。
まさに、「エンジェル・アイズ」という映画の、題名に、相応しい。
そして、この二人の演技の、素晴らしいことったら、ないぜ!!

ジェファニーが演じた、シャロンという女警官は、ともかく、たくましい、
タフな警官だ。そんな力強さを、ジェファニーは、いとも、簡単に、
らしく、演じていた。収録されていたインタビューを聞くと、
この役作りには、苦労したらしい。

これだけだと、ただの、男勝りの女警官か、となってしまうが、ジェファニーが
凄いのは、微妙な恋愛の揺れる女心とか、排除されてしまった、自分の家庭に
対する、複雑な心の動きも、ちゃんと、表現できていることだ。
ジェファニーのこの演技が無ければ、この映画は、面白くなかっただろう。

交通事故で、一瞬にして、妻と幼い息子を失った、通称・キャッチ
(本名はスティーブ)を演じたジムも、とても、良かった。そういう陰のある
キャッチの雰囲気を120%出していたし、徐々に、シャロンを好きに
なっていく過程の心理描写も、出色の出来だった。

凄く不思議に思えたのは、自分の心を開放できず、デートが苦手な
シャロンが、同様に、自分の過去に触れられたくないキャッチに、
なぜか、自分の心を、開いていくことだ。

それは、キャッチに自分の姿を見たからなのか? それとも、
キャッチの「エンジェル・アイズ」を深層で覚えていて、それに、
魅せられてしまったからなのか??

この映画は、「こだわり」は、人生を、不幸にする、と、いっている。
まず、判りやすいのは、キャッチで、死んでしまった妻子に、いつまでも、
こだわるのは、自分を、不幸にするだけだ。
新しい愛を見つけ、新しい家庭を築くことでしか、
キャッチは、癒されない。

それは、シャロンも、同じだと思う。
シャロンと、その父親に、何があったのか、それは、この映画では、
間接的にしか、説明されなかったけど、折角、会いに行った父親が、
娘はもういない、なんて、本人に言う、ひどい人間だったとは、
あきれて、私は、言う言葉も無い。

まあ、日本でも、こういう、子供に条件をつけて、その条件を満たさなければ、
自分の子供じゃない、なんて、言い放つ、愚かな親が、多いことは、確かだ。

そんな父親と、その父親を庇護する家族に、シャロンは、こだわる必要は
なかったのだ。むしろ、シャロンのほうが、父親とその家族はもうない、
と見切りをつけて、未来に向かって、生きていくべきだったのだ。
シャロンも、新しい愛を見つけ、新しい家庭を築くことでしか、
癒されないのだ。

新しい愛を見つけ、新しい家庭を築くことでしか、癒されない、
シャロンと、キャッチが、恋に落ちていくのは、必然だった。

シャロンと、キャッチが、愛し合うシーンは、とても、美しい。
それに、見とれてしまった私は、こういうシーンが、邦画には、
少ないなあ、と、しみじみ、思った。

インタビューで、ジムは、深い付き合いに臆病になったキャッチは、
見知らぬ人に、親切にして、心のバランスを保っている、と、
分析してみせたが、全く、その通りで、よく理解できる意見だ。

そういう観点で、シャロンを見ると、キャッチと同様に、
家族から見放されたことに対して、警官の仕事に励むことによって、
やはり、心のバランスを、保ってきた、と、言えるんじゃないか、
と、思った。
ここでも、シャロンと、キャッチの、共通点が、ある。

いろんな意味で、出会いは偶然だったけど、結びつくのは、
必然だった、シャロンとキャッチ。

ジムが、インタビューで、この映画のキャラクターには、
普遍性があると、指摘していたが、私は、キャラクターだけじゃなくて、
この映画の出来事、すべてに、普遍性がある、いい映画だ、と、思った。






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映画「ブース」許せない一言を吐いた人気DJの佐藤隆太 [映画]

CATVでやっていた、「ブース」という映画を、なんとなく、見てしまった。
ホラーとか、スリラーの映画は、見ない主義なんだけど、75分と短い映画
だったので、少し、気が楽になったから。2005年11月に、公開された。

この題名の「ブース」とは、ラジオ放送局のスタジオのことらしく、
映画の舞台は、第6ブース。地下4階にあるということで、
何か、地上とは違ったことが、起こりそうだ。

この第6ブースは、今は、使われていないが、開局当時、年配のアナウンサーが、
リスナーから、変な電話を受け、そのブース内で、首吊り自殺をした、という、
いわくつきの場所だった。

私が、このシーンを見て、理解したのは、そのアナウンサーが若いころ、
一緒に心中しようとして、死んでしまった女からの電話だった、ということ。
このブースは、死後の世界とつながっているのか???

この映画を見ようと思ったのは、主演が、佐藤隆太さんだったこともある。
佐藤さんは、ラジオの人気DJ・勝又真吾の役で、いかにも、
女に持てそうな、色男の役。でも、調子に乗っていて、傍若無人な、
無神経なヤツ。まあ、放送局とか、芸能人って、けっこう、そういう、
内容の無いヤツ、いるよね。

ある日、放送局の改装のため、その日限りで、第6ブースを、使うことになった。
Tokyoラブコレクションというシリーズの深夜放送の、その日のテーマは、
彼氏とか、彼女からの「許せない一言」だった。

最初の電話は、「バケミ」とかいう、12歳、千葉県の少女。
好きだった男の子に、言われた暴言の話だった。
真吾は、明るく、明るく、対応するが、いやな予感がする。
何かを、思い出したようだった。

そして、キイキイいう異音が入り、「ウソツキ!」とかいう女の声まで入る。
これは、電話の混線か? ということで、リスナーから、
今の音は何だ? とか、本当に混線か? とか、ものすごい反響になる。

引き続き、入ってくる電話の内容は、略奪愛だったり、心無い言葉だったりして、
それ自体は、よくある話で、「許せない一言」の1つのサンプルだった。
しかし、真吾にとっては、見過ごせない内容だった。

それは、過去に、自分が、やってしまったことと、よく似た事例だったから。
そして、その過去の事例のシーンが、時々、映像になって、映し出された。

特に、会社の同僚に発した、「口が臭い」という、心無い言葉の、
電話相談について、真吾は、自分の思い出とか、気持ちに動揺してしまって、
あやふやな対応をする。
その不十分な対応を、電話しているリスナーに咎められて、逆上したかのような、
強い態度に出てしまうのだった。それじゃ、DJ,失格だぜ!!

一番大きな問題は、ニュース担当の、マブチという女性アナが、
到着していないことだった。
この女性は、真吾が略奪して、恋愛していたのに、真吾が、捨てようとした女性だ。
伊豆で、別れ話のもつれから、車から捨ててきた。
こういう話になってくると、真吾のことを、単に、性格悪い、いやなやつとばかり、
言っていられない。下手をすると、犯罪者になっているかもしれないのだった。

この映画は、電話相談が、真吾の思い当たることばかりで、しかも、
女性を捨ててきたばかり、という、心理状態に置くことで、真吾に、いいようのない、
不安を、惹起していくことに、醍醐味があるように、思う。

それを、外界から遮断されたような、ブースの中を舞台にすることで、
なお、一層、真吾の周章狼狽を、増幅して見せている。生放送中という設定も、
同じような効果を、出していると思う。

自分が思い当たることばかり、電話相談してきたりしたのは、全くの偶然で、
それに、翻弄された、真吾が、パニックを起こしたのか??
人は、誰でも、過去の過ちや、ウソなどを思い巡らすと、疑心暗鬼になり、
どうでもいいことを、疑ってみたり、幻視や幻聴が、現れるものだ。
いやー、悪いことは、できないものだ。

ただ、この映画は、それだけではなくて、やはり、この第6ブースに、
何かある、と、思わせている。それは、何なのか????
私は、この映画の中で、「ウソツキ!」と、何回も、リフレインのように、
繰り返された言葉が、鍵だと、思っている。

「ウソも方便」なんて、諺もあるが、「許せないウソ」も、あると思う。
あのブースに、許せないウソをついたものが入ると、その部屋の
自縛霊か、なにかが、そいつを懲らしめて、首吊り自殺に
もっていくのでは、ないだろうか???

さて、これまでの人生で、嘘をついたことが無い人は、いないと思うけど、
「許せないウソ」をついた人は、何人、いるんだろうか???
まあ、そういう質問をしてみても、ウソをついた本人は、すっかり
忘れてしまっていて、つかれた本人は、ずっと、覚えている、ということが、
この映画の怖さじゃ、ないだろうか??







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映画「東京タワー」すねかじり男が出世して親孝行を自画自賛する醜悪な映画 [映画]

すでに、ここのブログでも書いたように、「東京タワー」の原作本は、
私にとっては、マザコン男の孝行談にしか、読めず、失望した。
そんな原作を映画化したとしても、どうせ、面白くないだろうと、思っていた。

ところが、映画「東京タワー」が、映画賞かなにかを取った、という噂を聞いて、
もしかしたら、映画は、原作と違って、よく出来ているのか、と、期待した。
それで、遅ればせながら、DVDをレンタルして、見てみた。

で、結論を先に言うと、原作よりも、映画の方が、もっと、ダメだった。
やっぱり、自分の直感を信じて、この映画は、見るべきでは、なかったな・・・
ともかく、退屈で、疲れた映画だった。内容の無い、つまらない映画だった。
しかも、2時間20分を超える、長時間の映画だった!? 拷問に近かった。

この映画の題名、「東京タワー」とは、どういう意味だったのだろうか????
全く、不明である。あるいは、名画「東京物語」のパロディだったのかもね。

まず、ストーリーだけど、ただ、ノルマ的に、事実をなぞっているだけで、
この先、どうなるんだろう、という、映画の醍醐味が、全然、無かった。
映画は、やはり、夢中になれるストーリーじゃないと、いけない。

この映画は、原作と違って、実質、母子家庭に育った主人公・ボク
(オダギリ・ジョーさん)の出世と、親孝行の、自慢話の域を、出ていない。
ボクは、頼りない男の子だったけど、どうだ、こんなに、成金の男になったんだ、
という、自画自賛の話だ。かなりな醜態で、恥ずかしくないのかな???

演じたオダギリ・ジョーさんの、多彩なファッションは、ダサくて、全て、
場違いで、まあ、田舎から東京へ出来た、田舎者らしくて、それは
リアルだったけど、オダギリ・ジョーさん自身の雰囲気は、九州の炭鉱の
田舎から出てきた、純朴な男の子のそれではなく、都会のブローカーみたいで、
全く、ミスキャストだった。

そんな都会的な、怪しい雰囲気の、オダギリ・ジョーさんでも、後半の、
癌性疼痛に苦しむオカンに、付き添う辛さや、オカンの死への、深い悲しみは、
よく、表現できていたと、思った。外見が違えば、名演だった。

オカンを演じたのが、若い時が、内田也哉子さんで、この女優は知らなくて、
演技もヘタだし、もっと、違う女優が、いなかったのかと、思った。
顔が、樹木希林さんに、似ているという理由だけで、抜擢されたのかどうか・・・

年配のオカンは、その樹木さんが演じていて、全般に、いい演技だった。
特に、ボクに対する母親ぶりや、オトン(小林薫さん)への対応など、
なかなか、良かったね。

個々の役者の演技を云々するより、むしろ、脚本に、問題が多い。
オトンのキャラだけど、自分勝手な、遊び人で、女遊びも盛んなオトンが、
小林さんの、演技や、セリフから、全然、見えてこなかった。

別居して、別の女と暮らして、何年も経つのに、オカンが病気になった途端、
看病のため、何日も、東京に滞在するなんて、有り得ないぜ。
このオトンとは、どんな男なんだ!?

大体、このオトンの身勝手さゆえに、オカンが苦労して、癌になったのかも
しれないのに、葬式では、しゃしゃりでて、涙を流すなんて、
どういう神経をしているんだろう??????

松たか子さんが演じた、スズキという若い女に至っては、その存在自体、疑問だ。
ボクとは、もう、別れた、という。そんな女が、いまだに、ボクに
付きまとって、オカンとも付き合うなんて、何のつもりなんだろう????
だから、松さんの存在感も希薄で、まるで、亡霊見たいに、
ボクに、取り付いているようだった。

オカンが、必死に稼いだ金を元手に、大学時代に遊びほうけた、親不孝なボクは、
卒業後、仕事が成功して、親孝行も出来て、それで、すべてが、免罪されたような、
展開だった。
ボクには、終始、葛藤がないようだった。ホントに、それで、いいのか???

妻子を捨て、不倫して、勝手気ままに、生きてきたオトンは、入院したオカンを
見舞いに来た時は、腑抜けの、生きる屍みたいで、反省も無く、それで、すべて、
許されると、思っているのだろうか??  人生の葛藤は、無いのだろうか???

ベッドの上で、いそいそ、そんな腑抜けの、オトンの来訪を待つ
オカンは、一体全体、何を、考えているのか??
悩みは、無いのだろうか????

この映画は、登場人物の、個人個人に、葛藤が、無い、映画だ。
そして、悪い人が、ひとりもいない映画だ。
そんな世の中が、どこに、あるんだろう?????
実に、無意味な映画だ。

蛇足。最近、有名な役者を、一瞬、登場させることが、流行っているけど、
観客動員を狙った、そういう姑息なことは、やめてほしい。
この映画でも、小泉今日子さんとか、宮崎あおいさんとか、出てきたけど、
あれは、一体、何だったんだろう????? 人寄せパンダか?(死語!?)

もう1つ、蛇足を付け加えると、映画「三丁目の夕日」のパクリで、
建設中の東京タワーや、オート三輪などの映像は、興行成績の向上のため、
回顧的な高齢者に媚びているとしか思えず、無意味なものだった。
そういう姑息な手段も、やめて欲しい。





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映画「恋するマドリ」新垣結衣の歳に似合わない不自然な清純ぶり [映画]

2007年8月に公開された、映画「恋するマドリ」を、全く予備知識なく、
新作DVDレンタルで見た。主演の新垣結衣さんも、良く知らなくて、
映画では、初めて見た。沖縄出身で、19歳。モデルから、女優もやり、
歌まで歌っているとか。この映画は、新垣さんの初主演映画だった。

この「恋するマドリ」という映画は、監督と脚本を、大九明子さんが
やっている。よく知らない女性監督だ。今年、40歳らしい。

私が見た感想は、総合的には、あまり印象に残らない作品だった。
その理由を、私なりに、いろいろ、考えてみた。

まず、テンポが悪いね。のっそりした、ダラダラした、展開だ。
もちろん、こういうテンポが、好きな人もいるだろう。私は、ダメだった。
まあ、ジャンジャン、すっ飛ばせばいい、という意味じゃないけどね。

それから、色気がないね。うーん、色気というより、性的色づけというか。
まず、美大生のユイが、材木屋の若旦那・タカシに、恋していく訳だけど、
男に惹かれていくのが、ちっとも、新垣さんの演技から、読み取れない。
ユイは20歳の設定で、色恋のかけらもない演技って、ウソくさい。

ユイの姉・ノリコが、出来ちゃった結婚の設定で、いかにも、そういう結婚を
罪悪視して、否定しているみたいな、この映画のスタンスが、不自然。
ユリが、憤慨して、姉の結婚式にも出ない、なんて、笑止千万!!!
男女が、ホントに好きなら、セックスするし、避妊に失敗しても、
結婚するなら、それは、幸せ、ということでじゃないのか・・・・・・

新垣さんの演技は、カメラを意識しすぎの演技で、不自然さが目に付く。
もっと、自然体の演技をしないと、見ている者が、緊張してしまう。
けど、後半のほうのシリアスな表情は、いいなあ、とも、思った。

何種類あったか、記憶できないほどの新垣さんのファッションの多様性は、
男の私は、ただただ、感心するばかり。女性監督の面目躍如か・・・

新垣さんは、エンドロールで、つじあやのさんが作った歌を、歌っている。
上手だから、この曲を聴くと、女優よりも、歌手に向いているかもね?!

最悪だったのが、タカシの恋人役のアツコを演じた、菊池凛子さん。
いかにも芝居をしているっていうレベルから、出ていない、ウソくさい演技だ。
大体、アツコのキャラが、統一的に、伝わってこない。菊池さんが、
十分、アツコのキャラを理解して、演じているとは、到底、思えなかった。

オタクっぽくて、研究なんかもやっているタカシのどこに、アツコは惚れたのか?
そして、何が、イヤで、タカシの元から、逃げ出したのか???
インドへ留学って、いったい、アツコは、何をしたいのか????

タカシを演じた、松田龍作さんの演技は、そこそこ、評価したい。
ともかく、研究者のクールな雰囲気を、よく、出せていたと思う。どっちかというと、
ヤクザっぽく見える松田さんだけど、こういう演技も、出来るんだ、と、感心した。

でも、やはり、松田さんも、アツコのどこに惚れているのか、よく分からなかったし、
雲隠れしたアツコに対して、冷淡すぎるような気がした。
要するに、これは、役者の問題よりも、脚本と監督の問題なんだろう。

この映画は、針葉樹から、発光体を取り出して、リサイクルを可能にする研究の話を、
延々とつづけている。なんで、こんな地味なテーマを選んだのか???
研究に造詣のある人なら、ついていけるけど、一般の人は、飽きてしまう。

それに、研究というか、研究者を、理解していないシーンもあった。
それは、緑の発光度が、ニッケルとパラジウムの同時添加で、高まり、
期待値になったことに関して、タカシが、ユイに、普通、同時に加えないでしょ、
なんて、頓馬な発言をしていることだ。

研究者こそ、普通の発想をしない人種で、上記の添加の例では、常識にとらわれず、
あらゆる添加パターンを試すのが、研究者というものだよ。まあ、材木屋の
タカシが、どこまで、本物の研究者か、その設定が不明なんだけどね。

タカシが、いまだに、アツコに惚れていると理解した、ユイは、
タカシとユイを、復縁させようとすることで、タカシを、諦める、
理由作りをしたのだろうか?  そういうの、どうなのかなあ????
恋愛における敗北主義じゃない?? 恋愛って、格闘技だぜ。

映画を見る限り、どうみても、タカシとアツコは、うまくいくとは、思えなかった。
むしろ、ユイの方が、タカシに合っているような気がする。
でも、それは、相性がいい恋人までで、ユイとタカシが結婚したら、
本当にうまくいくか、相応の不安が、残る。

だから、ユイが、タカシがまだ住んでいる、アパートを出て行く、
ラストシーンは、それで、良かったのかもしれないね、と、私に思わせた。

蛇足だけど、アツコの父親を演じた、世良公則さん(53歳)と、
27歳の菊池さんが、親子の設定って、すぐ、わかるでしょ!!
とても、恋人同士には、見えないし、親子の雰囲気って、一目瞭然だよ。
タカシは、眼が悪かったとしか、解釈できない私だった。




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映画「ガス燈」主役から脇役まで名演技は一見の価値あり [映画]

NHKのBS-2で、超古い名画、アカデミー賞を取った洋画を特集している。
その中で、「ガス燈」という映画を、やっていたので、見た。
この映画で、アカデミー賞主演女優賞を受賞したのは、イングリッド・バーグマンだ。
私は、バーグマンのことは、よく知らないし、この女優の映画を見るのは、
生まれて、初めてだった。

バーグマンは、噂どおりの美人だった。欧米人の美人タイプ。
私から見れば、グラマーだけど、骨格がゴツくて、あまり、趣味じゃない。
まあ、そんなことは、どうでもいい。

単純な恋愛映画なのかな、と思ったら、全然、違って、むしろ、ミステリー映画だった。
ストーリーは、今から見れば、陳腐で、宝石の魅力に狂った男が、破滅していく話だ。
ただ、その狂い方が、尋常でなく、ちょっと、寒気がしたのだった。

バーグマンが演じたのは、有名なオペラ歌手アリスの姪・ポーラという、
若い女性だった。ロンドンのソントン街に住むアリスは、何者かに、
絞殺されてしまった、というのが、映画の始まりだった。

ショックを受けたポーラは、この事件を忘れるために、イタリアへ、
声楽の勉強に、留学するのだった。そのイタリアで、ポーラは、
作曲家・アントン(シャルル・ボワイエ)と恋仲になり、声楽の勉強どころでは、
なくなっていく。元々、ポーラは、叔母のアリスみたいな、素晴らしいオペラ歌手に
なれるなんて、思っていなかった。

ポーラは、アントンと結婚する道を選ぶのだが、どういう訳か、
叔母の殺人事件があった、ソントン広場の叔母の家に住むことになる。
そして、そこで、ポーラは、とても、怖い経験をすることになる。

そのキッカケは、セルギス・バウワーが書いた書簡を、アントンに見せてからだ。
このとき、アントンは、ポーラに激高して、この書簡に、なにか、問題があることを、
見ている私に、教えることになるのだった。
でも、私は、どんな話になるのか、皆目、見当がつかなかった。

最初の疑惑は、アントンが、祖母の代から伝わる、カメオのブローチを、
ポーラにプレゼントするのだが、ポーラは、それを紛失してしまう。
でも、私には、紛失したとは思えず、なんか、夫のアントンが怪しいな、
と、考え始めたのだった。その理由は、分からなかったけど。

夫が、夜、仕事だと言って、仕事場に外出すると、家にいるポーラには、
不思議な出来事が、降りかかってくる。それは、室内のガス燈の炎が
小さくなり、変な物音が、天井から聞こえてくるのだった。
うーん、それで、「ガス燈」と、映画の題名にしたのか・・・・・・

この不思議な出来事を、アリスの絞殺事件と関連づけて、捜査していった
ロンドン警察のブライアン(ジョゼフ・コットン)が、とても、カッコイイ。
アントン役のボワイエは、小男で、ちょっと、カッコ悪いぜ。

けっこう、単純なストーリーのこの映画を、退屈せずに、見られたのは、
バーグマンや、ボワイエ、コットンの演技が、優れていたばかりでなく、
料理人のおばあさんを演じたベテラン女優や、メイドを演じた若手女優の
演技も、良かったからだ。

バーグマンは、最初は、美人で明るい若妻を演じて、それが、いろんな
恐怖にあって、やつれていく過程を、リアルに演じていた。

とりわけ、私が、凄いと思ったのは、最後の方で、また、騙されて、
放心状態のポーラを演じたかと思えば、急に、気丈になって、
ナイフを持ったりして、夫を、見放していく、という、気持ちの変化を、
実に、上手に、表現できていたことだ。

私から見れば、ポーラという女性は、あまりにも、純情で、人を疑うことを
知らない、世間知らずの女性に見える。でも、64年も前の映画なので、
当時の裕福な家庭の妻は、皆、あんなのだったのだろう。
そういう意味で、この映画は、ポーラのような、自立していない女性に
なってはいけない、ということを、言いたかったのかもしれない、と、思う。

アントンは、宝石に眼がくらんだ、という一点に尽きるが、そのためならば、
どんな卑劣なことでもやってしまう、という意味で、金権主義の輩に違いない。
そういう連中への批判も込めているのが、この映画だ。
現代日本でも、お金に眼がくらんだ、愚かな人々が、卑劣なことをやっている。

この映画は、夫婦の絆が、どうあるべきか、ということも、示唆していて、
実に、興味深かった。夫でも、妻でも、自分自身がつかんだ、事実に、
自信を持つことが、ともかく、重要だ。相手が、何を言おうとも。

そして、真実は、常に、具体的だ。
どんなに、美辞麗句や、言い訳を、並べ立てても、何をやっているか、
どんな行動をしているかが、重要だ。そこに、真実がある。



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映画「ドルフィンブルー」 松山ケンイチとフジの演技に拍手! [映画]

2007年7月公開の映画「ドルフィンブルー フジ、もういちど宙へ」を、
レンタルDVDで、見た。
イルカを助けるために、苦労した実話を、映画化した、とは、聞いていたが、
こんなストーリーだったとは、思わなかった。

ウイルス感染か、なにかで、尾びれが壊死した、イルカを、助けるため、
壊死部分を切除した。しかし、そのため、肝心の尾びれを失ったイルカは、
泳げなくなり、元気がなくなっていくが、それを、人工尾びれを付ける
ことによって、泳げるようにしよう、という話が、メインだ。

ただ、この映画は、そういうイルカ援助の、ドキュメンタリー映画ではない。
沖縄の美ら海水族館に、新しく、赴任した、新米の獣医・植村一也
(松山ケンイチさん)を中心とした、人間ドラマなのだ。

イルカの獣医になるためには、イルカの飼育を、できなくてはいけない、
という館長(山崎務さん)の考え方は、まったく、その通りだ、と思った。
でも、植村が来る前に、4人の獣医が、すぐやめてしまったという話は、
事実なんだろうか???

友人の獣医に、聞いたことがあるけど、水族館の獣医は、狭き門で、
なかなか、なれない、憧れの職種だそうだ。
それでも、4人も、辞めてしまったのかな???? ちょっと、信じがたい。

新米の獣医を、松山さんは、存在感溢れる演技で、表現出来て、とても、
良かったと思う。やっぱり、この俳優は、演技が、うまいな、と、感心した。

イルカをオペして、背びれを、切断するシーンは、けっこう、リアルだった。
こういうシーンは、一般の人は、辛いだろうけど、私は、慣れているので、
むしろ、オペの専門的なことに、いろいろ、興味が湧いた。

飼育員が、情熱を傾けて、イルカを飼育するのは、頭が下がるが、
どっちかというと、感情が優先して、科学的に考えられないのじゃないか、
と、思った。だから、植村が、冷静に、人工尾びれを付けよう、と、
提案したのは、さすが、獣医だな、と、納得した。
それを、ボツにせず、面白いと言った、館長も、大物だね。

それにしても、そういう企画を、大企業のブリジストンが、受けたのは、
正直言って、驚いた。まあ、大企業が受けたというよりも、ブリジストンの中に、
心ある技術者がいて、その人が、受けた、というのが、実態だろうけど。

人間でいえば、おばあさん格のイルカのフジが、尾びれを失ったイルカだったが、
よく、この映画の撮影に参加できて、いい映像を残したなあ、と、感激したね。

もっと、驚いたのは、フジが、その人工尾びれを、気に入ってしまった、
という、事実だった。やはり、尾びれが無くては、正常な生活が出来ないのだろう。
ブリジストンの技術者も、改良を重ねて、とうとう、フジは、
ハイジャンプに成功する。この映像は、ちょっと、信じがたかったが、
フジの喜びが、映像から、ダイレクトに、伝わってくるようだった。

イルカが好きで、いつも、イルカの水槽のそばにいた、女の子・ミチル
(高畑充希さん)の存在が、最初は、よく分からなかった。映画を見てくると、
どうも、東京で別れた、実母を、フジに見つけているらしかった。
フジは、3頭のイルカを育てた、『ビッグマザー』だから。

そして、一緒に住んでいた、祖父が、亡くなった後、東京へ行くシーン。
なんか、感情移入できなかった。ミチルを演じている、高畑さんの演技力が、
いま一つだったためじゃないか、と、私は、思っている。

でも、高畑さんが、歌手・みつきとして、コブクロの小渕健太郎さんが作った、
この映画の主題歌「大切なもの」を、歌っているのは、最高に、いいよ!

レストランというか、スナックをやっている、ママさん(永作博美さん)が、
水族館のチーフと、結婚する、という、エピソードは、あまりに、唐突で、
ちょっと、ついていけなかった。毛糸で編んだ、亀の被り物は、可愛かったし、
永作さんも、30歳後半なのに、愛らしい笑顔を見せてはくれたが・・・・
伏線の張り方が、不十分のように、思った。

最悪だったのは、植村の彼女・青山陽子(西山茉希さん)だ。
植村のどこに惚れているのか、まったく、不明だ。折角、植村が、
東京に出てきているのに、無理しても、逢おう、という、努力を、しない。

沖縄に、突然、出現して、水族館の獣医って、大変なんだ、なんて、
不機嫌そうな表情で、しゃべるかよ! 恋人に!?
まあ、この陽子を演じている西山さんが、超下手なだけ、かも知れないけどね。

イルカの、救済ドキュメンタリー映画を、避けて、イルカの救済に関わる
人間ドラマに、したかったのだろうが、その目論見は、
あまり、成功していないように、私は、感じた。
ただ、松山さんの好演と、フジの熱演に、拍手を送りたい。





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映画「アヒルと鴨のコインロッカー」男優陣の演技だけが光っていた [映画]

2007年6月に公開された、映画「アヒルと鴨のコインロッカー」を、
新作レンタルで見た。ともかく、変わった映画だった。
なんて言ったらいいんだろう???  
とりあえず、アジア留学生の物語かな。でも、ちょっと、違うような。
一種のサスペンス映画なのか?  でも、ちょっと、違うような・・・・

ともかく、眠くもならず、一応、興味を持って見られたことは、確かだ。
ただ、気色悪いというか、後味悪い部分もあった。

この映画を最後まで見れたのは、もちろん、ミステリー部分に惹かれたからだけど、
もう1つ、演じている俳優たちの出来が、とても、良かったからだ。

東京から、仙台の大学へ来た、靴屋の息子・椎名は、知らず知らず、とんでもない
事件に巻き込まれていくが、その様子を、濱田岳さんが、上手に演じている。
長身でイケメンの若手俳優は多いが、濱田さんみたいな俳優も、貴重だ。

この映画では、おそらく、主人公に該当する河崎を、瑛太さんが、実に自然に、
演じていて、その演技力に感心した。瑛太さんは、もう1つ、重要な役割を
果たしているが、その演技が、賞賛に値するほど、いい演技だった。

詳しくは書かないけど、重要な人物を演じていた、松田龍平さんも、実に、
いい味を出していた。この人の演技も、ホント、自然で、さりげなくて、
しかも、ポイントを逃していなかった。

こんな3人の俳優が、演じているから、そういう意味で、この映画が、
悪くなるはずがない。
ただ、やはり、脚本が、私には、イマイチかな、と、思った。
まあ、人気作家・伊坂幸太郎さんの原作があるので、脚本ばかりのせいには、
出来ないが、原作を読んでいないので、そこの判断は、今は、できない。

ともかく、動物虐待の話を、なぜ、入れたのか、そこが、理解できない。
このテーマは、どんな話に持っていっても、絶対、後味は悪い。
主人公が、動物を可愛がり、河崎の元彼女・琴美(関めぐみさん)が、
超動物好き、という設定を、生かしたかったのだろうけど・・・・・

男優陣に比べると、関さんの演技は、オーバーアクションだね。
ちょっと、やりすぎだ。それにしても、琴美が、いくら、動物好きでも、
あそこまで、やるかなあ???  かなり、疑問だ。

動物愛護法があり、留守電の証拠もあって、警官たちの目の前で
琴美がやられたのに、悪者の1人が、短期間で、釈放され、平然と、
働いている、っていう設定は、かなり、不自然だ。

あと、ペットショップの店長・麗子(大塚寧々さん)の存在も、微妙だ。
動物愛護に引っ掛けたのか???  それはともかく、麗子のポリシーが
全然、分からない。最後のほうで、自首しろよって、どういう
考えなんだろう?? ペットを商売にしている信条って、ないのかな??
大塚さんに、説得力ある演技を、期待したかったのに・・・・

なぜ、アジアの留学生なのか?  なぜ、ブータンなのか?
日本人に冷たくされたり、日本語を覚えるのが大変だったり、
アジアの留学生の映画、という側面は、確かに、あるけれど、
アジア留学生のための映画には、ズバリ、なっていないと思う。

もちろん、もともと、100%、そういう意図でないことは、わかるが、
復讐の具体的シーンは、仏教国ブータンとは、乖離するイメージだった。
鳥葬から来る、イメージだとしたら、そんなもの、あまり、賛成できないな。

この映画の題名は、アヒルと、鴨と、コインロッカー??!!
ともかく、変な題名だよね。アヒルは、日本人で、渡り鳥の鴨は、
外国人のイメージか?  鴨の概念規定は、良く知らないけど、
日本在来種も含む、漠然とした、概念らしい。

で、コインロッカーだけど、これは、映画を見終わった今でも、意味不明だ。
映画では、神様の目をマスクするために、という、意味だった。
それは、椎名の優しさなのかもしれない。

ダイレクトには、そうなんだろうけど、コインロッカー=日本列島=島国
みたいな、連想は、許されるんだろうか?????
アジア大陸から、やってくる、鴨も、島国では、行き詰って、行くところがない。
それで、ボブ・ディランの歌なのかなあ・・・・・・・・・・

東京に、帰省する、椎名に、未来は、あるんだろうか???
仙台に残された、アジアの留学生は、寂しくないんだろうか?
私には、不安ばかり、残る、映画だった。



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映画「敬愛なるベートーベン」美女写譜師の存在は疑問 [映画]

ベートーベンに惹かれて、新作DVDを、レンタルしてみた。
クラシックなら、チャイコフスキーの方が、ホントは、好きなんだけど。
英国とハンガリーの合作映画(2006年)で、日本では、2006年12月に
公開されている。

ベートーベンといえば、やはり、第九、合唱つき、なんだね。
この映画も、第九の初演前後の、ベートーベンを描いている。
私にとっては、ベートーベンのシンフォニーなら、絶対、7番なんだけど。

既に、第九創作や、初演にまつわるエピソードは、いろいろ、知っている。
それは、世界中のクラシック音楽ファンなら、誰でも、そうだろう。
ところが、この映画は、そういう定説に、かなりの変更を加えていた。

一番大きいのは、女性の写譜師を登場させ、この女性が、ベートーベンの
創作活動に、大いに、協力したというのだ。映画だから、虚構はアリだけど、
この設定に、私は、最後まで、違和感があった。

ベートーベンを演じたのは、エド・ハリスという男優で、外見が、
あの有名なベートーベンの肖像画に、そっくりになっていた。
著名な音楽家として、活躍していたベートーベンは、自惚れからか、
尊大で、わがままになり、さらに、難聴になってしまったので、
自在に作曲できず、イライラしてばかりだった。

歴史に残る、名作曲家の私生活が、どんなに乱れていようと、彼の芸術には、
関係ない。それは、分かっていたが、ちょっと、この映画のベートーベンは、
乱れすぎ、のように、感じた。
特に、若い女性に、自分の裸体や、お尻を晒すなんて、ホントかよ、と疑問だった。

その若い女性の写譜師のアンナを、とても美形の女優・ダイアン・クルーガー
が演じていた。ダイアンは、超ボインで、素晴らしい肢体をしていた。
だから、これは、ベートーベンとアンナが、出来てしまう話のか、と、
思ったけど、そういう不謹慎な映画では、なかった。

最初、ベートーベンは、偏見から、女の写譜師なんか、認めようとしなかったが、
徐々に、アンナの、写譜師としての実力を認めて、彼女に頼るようになる。
歴史の真実は、ベートーベンは、誰にも頼ることなく、創作したと、思う。

でも、映画としてみた場合、ベートーベンが、アンナを信頼し、
頼っていくところは、いい展開だと、感じた。特に、男女の関係なんかは、
変に入ってこないで、音楽家と写譜師の関係が、ほぼ保たれていた点だ。

もちろん、アンナが作曲した曲を、ベートーベンが、くそみそに貶したのは、
大音楽家としてのセンスだろうが、見えている人には見えて、見ない人には、
見えない、という、天才の法則を、描写したものと、私は、受け止めている。

それは、アンナの恋人が、精魂込めて作った、コンペのブリッジの模型を、
粉みじんに壊してしまった、ベートーベンの言い分にも、出ていた。
可哀相だけど、才能のない人は、努力で、補うことは、出来ないんだよ。

ベートーベンは、甥・カールを、ピアニストにしようと、
頑張るが、カール本人は、自分には才能がないと、嫌がっていたのも、
同じことだと思う。カールは、ベートーベンのトリックスターと、
私は、理解していたが、この映画の解釈は、違うようだ。

評価が高い、第九初演のシーン、なんか、違和感があって、入れなかった。
ベートーベンが、なんか、まともに、指揮していたから。

難聴だったベートーベンが、この映画のように、まともに、指揮が出来たとは、
伝わっていない。私が知っているのは、オーケストラの進行とは、無関係に、
必死に、めちゃくちゃに、タクトを振る、ベートーベンの姿だ。

それに、オーケストラの中に混じって、写譜師のアンナが、補助のタクトを
振るなんて、まず、あり得ないんじゃないか、と、思った。
確かに、誰かが、指揮者・ベートーベンに代わって、別に、指揮していた
という話になっているが、写譜師が、にわかに、コンダクターになれるほど、
第九は、甘くない。

第九の初演は、この映画のように、拍手喝さいだったと、伝わっている。
それは、果たして、当時の聴衆が、第九の本質を見抜いたからだろうか?
演奏技術が未熟だった当時、第九のいい演奏には、なっていなかったとする説に、
私は、加担したい。

当時は、理解されず、後に、高い評価を受ける、「大フーガ」の初演のシーンは、
大作曲家・ベートーベンとしては、寂しいものだった。
そして、ベートーベンは、亡くなっていく。あっけない、寂しい最期だ。
先が見えている天才は、誰でも、こういう最期を、迎えるのかもしれない。



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映画「インビジブル・ウェーブ」浅野忠信とカン・へジョンの裸体が綺麗 [映画]

2007年5月公開の、映画「インビジブル・ウェーブ」を、
新作DVDレンタルで、見た。
タイ人の監督と脚本で、主演は、日本人の浅野忠信さん、共演は、
韓国人のカン・へジョンや、香港のエリック・ツァンなどで、
タイ、オランダ、香港、韓国の合作映画だ。これは、洋画なのか、邦画なのか。

香港のレストランで働く、料理人のキョウジ(浅野さん)は、
どういうわけか、ボスの妻に、手を出してしまう。
不倫なので、キョウジは、ボスに、殺されかねない事態だ。

ところが、ボスは、キョウジに、妻を殺すように、命令する。
日本的には、そう、あっさり、妻を殺さないのが、普通だけど、
この映画では、キョウジは、好きになった人妻を、殺してしまうのだ!?
しかも、毒殺という方法で・・・  

毒殺は、屈強な若い男が取る手段ではないと、心理学の本に書いてあったが、
悶え苦しんでいくシーンは、凄いものだったな。
この人妻を演じたのは、久我朋乃さんという女優で、パンツ1つで、
悶える姿は、けっこう、エロかったが、年齢は、なんと、48歳!!

ボスは、キョウジに、タイのプーケット島に行くように命じた。
普通に考えれば、キョウジは、その島で、ボスに、殺される、と、思う。
ところが、キョウジは、一見、のほほんと、プーケット島に、向かうのだった。

そこからは、まさに、ロードムービーといっていいだろう。
しかし、楽しい旅ではなくて、キョウジは、船旅の船内で、
いろいろな、ひどい目にあう。

部屋は、狭くて、汚いし、シャワーは変なときに出る。折り畳みベッドは、
跳ね返ってばかりで、寝るのも大変だった。
ドアが、室内から開かなくなって、外へ出られなくて、往生する。
こんなシーン、ユーモアのためにあるのかどうか、分からないが、
強烈なお笑い旋風に慣れてしまった私は、なんか、違和感があった。

キョウジは、船内で、ノイという、あかちゃんを、抱いている、若い女性に出会う。
キョウジは、人妻を毒殺したばかりなのに、ノイに恋したみたいだ。
余談だけど、赤ちゃんをあやす、浅野さんの声が、妙に、優しかったぜ。

結局、キョウジは、ボスが放った殺し屋(光石研さん)に後をつけられ、
ホテルの部屋には、強盗に入られ、散々な目に逢う。
さらに、その殺し屋に、銃で撃たれて、海へ飛び込んでしまう。

カラオケが好きな殺し屋を演じた、光石さんの演技は、賛否両論があると思った。
人間らしい感情が麻痺した、イカレた殺し屋を、良く演じていたとも言えるし、
あんまり、調子良すぎて、この映画の雰囲気から、浮いちゃているとも言える。

そのキョウジが、生きて帰ってきて、ボスに、復讐しに現れた。
こういうスト-リーは、よくあるもので、別に、驚かなかった。
ただ、すぐ、殺せばいいものを、鍋の料理に、手を出したりしたのは、
ちょっと、意外だった。まあ、料理人だから、当然かもね。

そして、船内で知り合った、ノイが、赤ん坊を抱いて、現れる。
そういう関係だということを、既に、キョウジは知っていた。
ボスは、妻が邪魔になり、キョウジに殺させたんだ。ひどいヤツだ。

ノイを見て、キョウジは、ボスに、ピストルを突きつけているのは、
ジョークだと、言ってしまう。えーっ、なんだよ、それは!!??
はやく、殺せよ!!!! じれったいな!!!

で、なにげに、帰るキョウジのそばに、仰向けになったボスが、横たわっていた。
ノイは、また、キョウジの、逢いたいみたいなことを、言った。
これも、何!!??  女は、怖いとでも、言いたいのか????

最後は、ボスから連絡を受けた、殺し屋が、無抵抗のキョウジを、
撃って、殺してしまう。
この時の二人の会話から、殺し屋は、ボスが、キョウジに殺されたことを、
知らないみたいだった。世の中、全部、分かったようなことをいってたクセに。

この映画、なんか、タブーがあるようで、男女は、キスシーンでさえ、
ぼかして撮影していて、セックスシーンなんか、問題外だ。
あと、死体を写すのも、ダメにみたいで、最後のシーンで、
キョウジに殺された、ボスの死体を、はっきり見せて欲しかった。

この映画は、脚本よりも、映像に、面白いのが、沢山あった。
例えば、ノイが、プールで泳いでいる、水中映像は、綺麗だった。
浅野さんの裸体も、なんか、変に、エロかったっけ。
船内で、うろうろ、廊下を歩き回る、浅野さんの映像も、味があったね。





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